段々子供みたいに感動しなくなる理由

なる(10歳)
なる(10歳)

明日の給食はプリンなんだよ。嬉しい!

なる(70歳)
なる(70歳)

いいのう。昨日食べたものも思い出せんわい

ネットサーフィンをしていると「いいな、これ」と思う物に出会うときがあります。

とても大事なものなのに忘れてたことをふと思い出すことがありますね。

今回の読売新聞のひじきご飯を食べた子供の感想はまさに忘れてた大切なものです。

小学校四年生になるくらいまではみんなこういう子供だったんですよね、忘れてた。

ひじきご飯もそうですが、わかめご飯も同じくらい毎回美味しかった。

思い返すと遠足で食べた母親の握ったおにぎりも毎回美味しかったですね。

なんで今はこの感覚がとても薄いんでしょうか?

感謝の欠如と別のところに目がいくから

小学校の給食は食べる直前が楽しみで嬉しくて仕方なかった気がします。

すでに三時間目くらいからおなか減ってるのに四時間目の授業がまだある。

この時間が終わればあの「ミートスパゲッティ」が食べられる。

給食係が取りに行き、みんなで手を合わせて「いだだきます」。

そして食べる。そりゃ美味しいですよね。毎回口に運ぶ度、美味しい。

なる(10歳)
なる(10歳)

毎日ミートスパゲッティでもいいよ。

なんで口に運ぶたびに美味しいと感動できるんでしょう?

それは食べれて嬉しいという感謝の気持ちですよね。

目の前の美味しいものに集中して感謝して食べる。

成長してくると義務教育だから、給食もあって「当たり前」。

親が給食代払うんだから食べて「当たり前」。

この「当たり前」が増えてくると厄介で、目の前にあるものに感謝しません。

だから食べることができることに感謝しなくなります。

高級寿司店にいくとそれがよくわかります。

高いお金を出して高い寿司を食べている。
あれだけ高いんだからそりゃ美味しいだろう。
こんなところで食べている自分は勝ち組だ。
連れてきた人もあんなに喜んで食べている。
人生は食べる回数が決まっているんだからいいもの食べないとな・・・などなど。
なる(70歳)
なる(70歳)

耳が痛いのう。原価とか考えちゃいかんな。

子供の頃のように目の前にあるものを純粋に見れなくなります。

美味しいものを食べてるのに余計なものが多くてそれに注意が向いてしまう。

対価で物を手に入れる社会だから、「当たり前」が容易に顔を出してくる。

しかも人生経験も増えてきたから、一度経験した記憶が先回りして予想する。

「こんなもんだろう」も顔を出してくるからほんと厄介だ。

ひじきご飯のお茶碗が無くなるまで毎回美味しいと思えるだろうか?

ひじきご飯に集中してるか?感謝してるか?

全身で美味しさを味わってるか?

もしそんな風に世界を感謝にあふれて見れるなら、何しても嬉しいんだろうな。

ふと思ったけど、だからフランス料理はあんなに大きなお皿にほんのちょっとの量なのかもしれない。

綺麗に盛り付けられた御馳走がほんの少しだから味わってゆっくり食べる。

確かにフランス料理を食べるときは目も舌も全身で味わってるような気がする。

食べようと思えば5秒で食べ終わるけどじっくり味わって食べるんだ。飲み込む瞬間までね。

目の前にあるものをフランス料理のようにじっくり味わう。

いつかひじきご飯を食べて同じ感想言えるよう、今、目の前にあるものに意識を集中する。

なる(70歳)
なる(70歳)

もらったこのグミ、確かにうまいのう。

なる(10歳)
なる(10歳)

あんまり沢山食べたら駄目だよ。

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